Vol.08 田中章弘さん『チャック・レイニーの音は力が抜けているけど芯がしっかりある音。彼の出すリズムやタイミングは独特な柔軟性があり、それがやわらかいグルーヴ感になっていくんだと思います。』
第八回目のゲストは、田中章弘さんをお迎えしました。
プロのベーシストになった頃の話、その後のキャリア
1954年9月3日生まれ。大阪市出身。
ベースを始めた頃のお話から伺います。プロになったきっかけは何だったのでしょうか?
この道に入ったきっかけは15歳の頃なので、69年かな。当時ボクはフォークのバンドとロックのバンドをやっていてオーディションに出たりしていたんですが、フォークの方が全然ダメで(笑) 中三の頃に楽器を買ってレッド・ツェッペリンのコピーをしていたんですがコピーしきれなくて歌詞もむちゃくちゃで(笑)だけどそれをオリジナルと言うことにして、大阪のラジオの深夜放送「ヤングタウン」にギターの北垣雅則と一緒に“ハッシュ”と言うバンドで出演したんです。そこで審査員から「おまえら面白いからやってみろ」と言うことになったのがきっかけです。これは夜中の番組だったんだけど、聞いていた友達がいて翌日学校に行ったらちょっとしたヒーロになっていました(笑)
*北垣雅則;現在は北垣響絃と言うお名前でジャズギターの講師をされています。
この頃、使っていたベースはワイルド・ワンズが使っていたヤマハのブルーのベース(ヤマハ SB-5A)。楽器屋さんに行った時にこれを見てネックが長くて「カッコいいなぁ」って思い、バイトして買いました。
70年、高一になると喫茶ディランに通い始めるようになり、そこで福岡風太、加川良とか、いろんな人と知り合うんですが、そんな時風太から「中津川フォークジャンボリー」に出ないかって誘われて“ハッシュ”で出演する事になったんです。行きのバスの中には大塚まさじも一緒でした。会場はメイン会場とは別のとこに唐十郎の劇団がやっていた黒テントと呼ばれるとこがあって、劇の合間に演奏しました。その時に北海道から来ていたダッチャと言うシンガー・ソングライターと知り合いになり、彼と一緒に“ダッチャとハッシュ”と言う名で出演しました。その後もダッチャと徐々にいろいろなコンサートに出るようになって行くんですが、翌年の71年かな、京大の西部講堂で初めて“はっぴいえんど”と一緒に出演したんです。その時、楽屋でメンバーが誰も何も話さないんです。「怖い人たちだな〜」って!(笑)
このバンドは中川イサトさんが面倒を見ていて、彼の紹介で金森幸介のバックもやりました。74年にトン(林敏明)とまたバンドをやるんですが、それが“THIS”ってバンド。ギターが石田長生、キーボードが佐藤博。バンド名は名前の頭文字から取りました。このメンバーでオリジナル・ザ・ディランのアルバムを作ったんです。ゲストにアコギで北垣雅則が参加しました。『悲しみの街(74)』
*ザ・ディランは西岡恭蔵、大塚まさじ、永井洋の3人。ザ・ディランIIは、大塚まさじ、永井洋のデュオ。オリジナル・ザ・ディランのレコーディングには、長田タコヤキ、高橋イタルなどが参加している。
同じ頃、加川良のアルバム『アウト・オブ・マインド(74)』のレコーディングと共にライブも一緒にやりました。このレコーディングは高槻市民会館でお客さんを入れないでホールエコーを使って録音したのですが、その時に鈴木茂が登場して一緒にレコーディングをしました。当時の茂さんはロサンゼルスとサンフランシスコでレコーディングをして来たばかりで、バンドメンバーを探している感じでした。
*アルバム『BAND WAGON(75)』は、翌年の75年にリリースされた。
茂さんは、どうやら大阪の春一で僕らのバンドを見ていたらしくて、佐藤さん、トン、ボクを引き抜いてバンドを結成する事になったんです。それが“ハックルバック”。その事が引き金となって、東京に行く事になったんです。今日持って来たベースはその頃に大阪で買ったもので、69年のフェンダーサンバーストのプレシジョン・ベース。今もよく使っています。ボクには、ちょっとこだわりがあってリック・ダンコ、ジェームス・ジェマーソン、チャック・レイニーから影響を受けて、ラリー・グラハムや、SANTANAのベーシストで茂さんの『BAND WAGON』でも弾いているダグ・ローチに憧れてチョッパー(スラップ)をやるんだけど、その頃日本ではまだ誰もやってなくてね。
マニュアルやYou-Tubeもなかったので、ただひたすらスライ&ザ・ファミリーストーンなどのレコードを聴いて叩くように弾いていたら、怪我はするわ、腱鞘炎(けんしょうえん)になるわで大変だった(笑)
日本で最初にチョッパー(スラップ)を始めたのは誰なのかと検索すると後藤次利って出て来るのね。でもボクの方が先です(笑)
*後藤次利は『ティン・パン・アレー(75)』「チョッパーズ・ブギ」で参加。
それで東京に出て来た翌年の75年の2月、目黒区民センターのライブ「ベイ・エリア・ファースト・コンサート」で“鈴木茂とハックルバック”としてデビュー。他に大滝詠一、細野晴臣、“バンブー”、小坂忠、吉田美奈子が出演しました。その後、荻窪ロフトの「ティン・パン・アレー・セッション」に出演。3月には、“ティン・パン・アレー”、 大滝詠一、 “ココナツ・バンク”、小坂忠, 吉田美奈子, “シュガー・ベイブ”とで文京公会堂。4月は日比谷の「スプリング・カーニバル」。5月は中野サンプラザで「ティン・パン・アレー・フェスティバル」があり、“小坂忠 + ティン・パン・アレー”、“細野晴臣 + セッション・バンド”、“大滝詠一 + セッション・バンド”、“バンブー”、 “ブレッド&バター”、“トランザム + クニ河内”、“シュガー・ベイブ”と一緒に共演しました。6月には、青森と仙台で行なった「ファースト&ラスト・コンサート」に “ティン・パン・アレー”と出演しました。
この時の“ティン・パン・アレー”のメンバーは前より増えていて、小坂忠(Vo,Cho)、 吉田美奈子(Vo,Cho)、細野晴臣(B,Vo)、林立夫(Ds)、鈴木茂(G)、ジョン山崎(Key)、佐藤博(Key)、浜口茂外也(Per)が一緒でした。同じ頃、横浜教育会館で、“センチメンタル・シティー・ロマンス”、“シュガー・ベイブ”と共演。7月には大阪の中之島公会堂で“ティン・パン・アレー”と。9月は芝・増上寺の「ニューミュージック・コンサート」に、“久保田麻琴と夕焼け楽団”, “シュガー・ベイブ”と出演。そして11月の新宿厚生年金会館でのコンサートで解散。もっとやりたいと思ったんですが、当時はなかなか意見が合わなかったんだと思います。
*『ティン・パン・アレー(75)』3曲目「はあどぼいるど町」に参加。
翌76年、『バンド・ワゴン』の収録曲や佐藤さんのオリジナルが入った曲を1日で録音したアルバムが発売されます。録音したのは75年の10月。オーディオ・フェアーのサンスイのブースで流すために録音されたもので、それが『幻のハックルバック(76)』と言うアルバム。最初はカセットのみでの発売で、パーカッションに斉藤ノブ、コーラスは桑名正博が参加してます。89年になってCDが出て、 96年には紙ジャケットのCDで再発されました。同じ年の76年、細野晴臣が全面的にプロデュースした西岡恭三の3枚目のアルバムに“ハックルバック”の4人で参加したと思います。『ろっかばいまいべいびい(75)』。恭三さんも細野さんも同じ狭山に住んでいた時代で、ボクも近くに住んでいた時の事です。“ハックルバック”は99年に再結成するんですが、オリジナルメンバーの茂さんと佐藤さんの他にドラムが青山純、ギターに市川祥治の5人で渋谷のクワトロや青山CAYでライブをやりました。16年には限定復活として茂さんとボク、そこにピアノで中西康晴、ドラムに上原ユカリ、ゲストに吉田美奈子さんが来てくれて、12年に亡くなった佐藤さんの追悼を兼ねたライブを東京と大阪のビルボードでやりました。
15年に大阪サンケイホールと京都会館でのライブが入っているアルバムが出されています。『SHIGERU SUZUKI & HUCKLEBACK 1975 LIVE(15)』。バンドが解散するまで行なわれたライブの「ベイエリア・コンサート スーパーロックジェネレーション」から4月4日の大阪サンケイホールと、「ファースト&ラスト・コンサート」から5月15日の京都会館でのライブとリハーサルの音源が使われていて、元の音源はカセットテープから起こしたものなんです。大阪サンケイホールの時は“シュガー・ベイブ”。 京都会館の時は“ティン・パン・アレー”が一緒で、アルバム『HORO(75)』を出したばかりの忠さん(小坂忠)や吉田美奈子も一緒でした。
76年の“ハックルバック”解散のあと、細野さんの『泰安洋行(76)』にアッコちゃん(矢野顕子)や佐藤さん、茂さんたちと参加しました。そのあと細野さんのライブが横浜の中華街であって、細野さんは歌とマリンバでボクがベースで参加しました。
*中華街でのライブは、 「ハリー細野& TIN PAN ALLEY IN CHINATOWN」と題したライブで1976年5月8日、横浜中華街の同發新館において行なわれた。メンバーは、鈴木茂(G,Banjo)、林立夫(Ds)、矢野顕子(Ap,Cho)、坂本龍一(Ep)、田中章弘(B)、浜口茂外也(Perc,Fl)、村岡建(Sax)、羽鳥幸次(Tp)、新井英治(Tb)。この時の模様は、2007年にリリースされた『ハリー細野 クラウン・イヤーズ1974-1977(07)』というボックス・セットで発売されている。このボックス・セットには全演奏を収録したCDと、一部の映像を収録したDVDが入っている。 15年『SWITCH SPECIAL ISSUE~70′S VIBRATION YOKOHAMA(15)』の付録DVDにも同じ映像が収められている。
77年になると大滝さん(大滝詠一)の4枚目のアルバム『NIAGARA CALENDAR(77)』に、ドラムのユカリ(上原“ユカリ”裕)と福生にある大滝さんの自宅にあるスタジオでレコーディングをしたんですが、ユカリとは大阪時代の頃は顔見知り程度で、このアルバムで初めて一緒にレコーディングをしました。
*大滝詠一のナイアガラ・トライアングルは、“ココナッツ・バンク”の伊藤銀次、“シュガー・ベイブ”の山下達郎と三位一体構想で始まった。レコーディングに参加したメンバーは佐藤博(P)、村松邦夫(G)、駒沢裕城(Steel g)、松田幸一(Harmonica)、井上鑑(P)、他が参加。
このアルバムで銀次さん(伊藤銀次)や達郎さん(山下達郎)とも知り合いになっていって、彼らのアルバムにも参加することになって行きました。銀次さんとは最初のソロアルバム『DEADLY DRIVE(77)』に参加。この時のメンバーはユカリの他、緒方泰男、坂本龍一(Kb)、斉藤ノブ(Per)、村松邦夫(G)、大貫妙子(Cho)が一緒でした。
*田中と上原は当時「りりィ」のバンド、“バイバイ・セッション・バンド” に加入していた。ギターに土屋昌巳、伊藤銀次、ドラムスでは西哲也(“ファニーカンパニー)”、平野肇( “ダディ・オー”)、上原“ユカリ”裕。ベースでは吉田建(“エキゾチックス”)、田中章弘(“ハックル・バック”)。パーカッションでは斎藤ノブ(“パラシュート”)。キーボードでは国吉良一、茂木由多加(“四人囃子”)、そして坂本龍一など、すばらしいミュージシャンたちを輩出している。ウィキペディアによると75年に上原が加入、76年に田中が加入と記されている。
そして達郎さんとは、彼の2枚目のアルバム『Spacy(77)』に参加しました。一緒にセッションしたメンバーはユカリと教授(坂本龍一)。ライブも下北沢と新宿にあるLOFTで一緒に出演しています。当時使っていたベースは今日持って来たこのベースです。(69年のフェンダーサンバーストのプレシジョン・ベース)78年、同じく達郎さんの3枚目のアルバム『Go Ahead(78)』に参加。ドラムは同じくユカリ、キーボードに難波弘之、ギターに椎名和夫。アルバムの中の「BOMBER」と言う曲が大阪で結構人気になっていて、ヒットしたみたいです。また同じ年の78年、恭三さん(西岡恭三)のバックバンドでドラムのトン(林敏明)、ギターの是方博邦やキーボードの難波正司と京都の磔磔などのライブハウスに出演。79年には最後の春一(春一番コンサート)に“ソー・バッド・レヴュー”の山岸潤史(G)や石田長生(G)とチャールズ清水(P)、キーボードはもう一人いて確か国府輝幸がいたと思う。ドラムはツインドラムでユカリと松本照夫がいて、コーラスには亀渕友香 、大上留利子や大阪のバンド “レイジー・ヒップ”のボーカルの千秋、パーカッションにMac清水が一緒でした。スタジオの仕事も少しずつ増えて行き、キティーレコードの仕事で陽水さん(井上陽水)が石川セリさんと結婚された頃に出た6枚目のアルバム『White(78)』の録音とツアーでベースを弾いています。
79年になって達郎さんの『Go Ahead』の時のメンバー、ユカリ、椎名和夫、難波弘之で杉並公会堂のライブをやったあと、同じメンバーにコーラスで吉田美奈子、大貫妙子とで「FLYING TOUR ’79 PART-2」という全国ツアーに参加しました。またその後、同じメンバーで4枚目のソロアルバム『Moonglow(79)』にも参加。コーラスはライブでも一緒だった吉田美奈子と大貫妙子。他に、サックスで土岐英史が一緒でした。
*山下達郎のコンサート一覧
80年、達郎さんや銀次さんとのつながりで、ター坊(大貫妙子)の4枚目のアルバム『ROMANTIQUE(80)』で2曲弾いています。同じ年にキティーレコードの仕事で、高中正義のソロ6枚目の『T-Wave(80)』と、翌年のソロ7枚目『The Rainbow Goblin(81)』でベースを弾き、ライブにも参加しました。高中正義のライブではSANTANAとも共演した事があります!今はもう手元にはないんだけど、その時はサンバーストのジャズ・ベースを使っていました。
いろいろと録音仕事が増えていき、寺尾聡の1枚目『Reflection(81)』に参加。これはライブにも参加しました。EPOのアルバム『JOEPO~1981KHz(81)』もやりました。その後EPO、大貫妙子を始め、和田加奈子、Bread & Butter他、多数のコンサート及びツアーに参加していきます。
83年、この年のユーミン(松任谷由実)のツアー、「リ・インカネーションツアー」(83)よりレギュラーメンバーとして参加。ユーミンがちょっとお休みする「Back to the Beginning」(12)のツアーまでの20年間、かなり長い期間をバックで一緒に演奏しました。ツアーのライブ本数も多く、ほとんどユーミンという状態でした。
最後の年のツアーでは、“プロコム・ハルム”が一緒で、すごく勉強になりました。ユーミン自身が“プロコム・ハルム”を好きで、若い頃とても影響を受けたようです。彼らの楽屋に行くと昼間からシャンパンやワインが用意されていて、本番前から飲み始めるんです!ライブが終わると「明日はこうしよう」とかのダメだし(反省会)をしていたんですが、もうその頃には頂点に達しちゃっていて(笑)僕らは緊張していて間違えないようにしないとって思っていたんですが、彼らは既に結構な酒が入っていで、「まぁいいじゃない。楽しければ!」って話しているんです。それを見て、良いなって思っていました(笑)
ユーミンのとこでは、テープやクリックを聞いて一緒に演奏することや演出のために一緒に動くこともあり、装置も大掛かりなセットが用意されている総合的なショーでした。それを長い期間一緒に体験したと言うことは、大変でしたがとてもいい経験になりました。DVDで出されているライブの映像があって、それは荒井由実の名義として1996年8月13日~15日、中野サンプラザで行われたライブのものがあります。『Yumi Arai The Concert with old Friends(96)』
これからの活動として南壽あさ子の録音、そしてツアーの計画もあります。また他に伊勢賢治とのライブ、Y.A.E.I 2019コンサートに出演します。最近はまた茂さん(鈴木茂)と一緒にやる事も多くなって来ています。また忠さん(小坂忠)とも一緒にやっています。これからも茂さんとのライブは増えていくと思います。
(2019年3月末日)
*“ハックルバック”のオリジナルメンバーである、鈴木茂と田中章弘の2人で、
「鈴木茂トライアルライブ」と題し、初台にある「Artist Lounge」で定期的にライブを行なっています。
ご自身が参加されたアルバムで想い入れのあるものは何でしょうか?
やはり思い出深いのは、“ハックルバック”の『幻のハックルバック(76)』です。これはちゃんとスタジオでレコーディングしたので想い入れがあります。もう1枚は”ライブ盤の“ハックルバック”『SHIGERU SUZUKI & HUCKLEBACK 1975 LIVE(15)』ですね。あとは「BOMBER」が入っている達郎さんの『Go Ahead(78)』。これは未だに皆から話しかけられます(笑)
ここで田中さんが使用しているベースについてお聞きします。今日お持ち頂いたベースの他、当時使っていたベースや最近使っているベースについてお聞かせください。
今日持って来た69年のプレシジョンの他に、青い67年のフェンダージャズ・ベースを持っています。あと82年 のリックターナーのセミアコベースを持っています。ユーミンやアンプラグドのライブで使いました。あとこれもよくステージで使ったのですが、89年に買った木目が透けて見える黒のフェンダーカスタムショップの5弦ベースを持っています。大阪においてあるベースもあって、フェンダーカスタムショップのジャコ・パストリアスモデル、EMGのアクティブマイクが付いていた79年の木目のスペクター(NS-2)も持っています。
ボクが持っているベースは全てネックがローズ・ウッドで、メイプルネックは前に試した事があるのですが、カチカチと音がするのでボクは使っていません。
ありがとうございます。では田中さんが初めてチャック・レイニーのベースの音を聞いたアルバムはどれでしょう?
ハープのアリちゃん(松田幸一)に聞かされた“ラスカルズ”の「Groovin’(67)」と言う曲が最初に聞いたチャックのベースだったんですが、インパクトがあったのは、やはりコリューションです。Chuck Rainey『Coalition(69)』アルバムのジャケットに写っているこの青いベースの色に憧れていました(笑) あとで同じ色のベースを探して買いました。あとクインシーのアルバムQuincy Jones『Smackwater Jack(71)』と、アレサ・フランクリンの教会でやったライブAretha Franklin『Young, Gifted and Black(72)』この2枚はよく聞きました。
その後チャック・レイニーが参加しているアルバムを聴いて、印象に残っているアルバムはありますか?
Marlena ShawWho Is This Bitch,Anyway?(74)』そしてHarvey Mason 『Marching In The Street(75) 』の2枚。ハービー・メイソン のアルバムでのドラムとベースのコンビネーションが最高だったなあ。あと好きだったのはSteely Dan『Aja(77)』このアルバムの中で「Josie」と「Peg」の2曲は特に好きでした。
では、それらのアルバムを聴いた時どのように思われましたか?
このベース事典に出ていた小原さん(小原礼)が言っていたように、ゴムボールがバウンドすると言うのはすごくわかるんです。チャック・レイニーの音は力が抜けているけど、芯がしっかりある音だと思います。右手のフィンガーリングは、とてもやさしくフェザータッチで決して力が入っていない。また左手はとてもスムーズでチャックしか出来ない動き方。チャックならではと言う感じで素晴らしいセンスを感じます。彼の出すリズムやタイミングは独特な柔軟性があり、それがやわらかいグルーヴ感になっていくんだと思います。
ありがとうございます。それでは最後にチャックさんに一言お願いします。