Vol.07 細野晴臣さん『チャック・レイニーのソフトな音色とミュート感、倍音、ハーモニーはどれをとっても他のベーシストと違っていて、とても影響されました。』
第七回目のゲストは、細野晴臣さんをお迎えしました。
いよいよチャック・レイニーのベース事典に、日本の音楽シーンに欠かせないベーシスト細野晴臣さんが登場いたします。最初に細野さんのキャリアからお伝えいたしますが、日本の音楽業界の歴史とも言える非常に読み応えのある内容になっています。この年表を作成する際、作家で音楽評論家の前田祥丈氏に監修をお願いいたしました。前田氏からは当時の貴重なお話をお聞きすることができ、更に深見のある内容となりました。それでは年表からご覧ください。
プロのベーシストになった頃の細野晴臣さんと、その後のキャリア。
1947年7月9日東京都港区生まれ。幼少時代から家にあった蓄音機で、ジャズ、ポピュラー、童謡など幅広く音楽に親しむ。小学2年生から5年生までピアノを習う。中学1年生の時にギターを買ってもらい習得。その後、アルバイトをしてエレキギターを買い、友達と初めてのバンド「ブレッツメン」を結成。ベンチャーズやビーチボーイズの曲をカバーする。63年、立教高校入学。フォークグループにも参加するなど、いくつかのグループをかけもちするようになる。
66年、立教大学入学。柳田優(柳田ヒロの兄)が居た「ドクターズ」というバンドでピンチヒッターを頼まれ、初めてベースを弾く。その後、松本隆がドラマーとして在籍した慶応大学のバンド「バーンズ」にもベーシストとして参加する。さらに東京のアマチュアシーンで活動するミュージシャンたちとセッションするなど交流を広げ、鈴木茂、林立夫、大瀧詠一などとも出会う。
69年4月、解散した「ザ・フローラル」というGSのメンバーだった小坂忠(ヴォーカル)、菊地栄二(ギター)、柳田博義<ヒロ>(キーボード)に、松本零<隆>(ドラム)と細野晴臣が加わり、「エイプリル・フール」を結成。インプロヴィゼーションを多用したサイケデリックなサウンドで注目された。9月にアルバム『エイプリル・フール』(69)を発表。しかし、アルバムが出た時点では解散状態になっていた。細野、松本、小坂は新しいバンドを結成しようとするが、小坂がミュージカル「ヘアー」に出演することとなり、計画は挫折する。
*エイプリル・フールはベース事典、小原礼さんのところでも触れています。https://www.chuckrainey.jp/encyclopedia/3273/
69年9月、細野晴臣(ベース)、大瀧詠一(ヴォーカル、ギター)、松本隆(ドラムス)で「ヴァレンタイン・ブルー」を結成。その後、鈴木茂(ギター)が参加し、10月28日に初ステージをおこなう。70年、「ヴァレンタイン・ブルー」のアルバム制作が決定。その直後に岡林信康のバック・バンドの依頼を受ける。3月、バンドの名前を「はっぴいえんど」に改名。大瀧以外で、遠藤賢司『niyago』(70)。全員で、岡林信康『見るまえに跳べ』(70)のレコーディング参加を経て、ファースト・アルバム『はっぴいえんど』(70)を発表する。
71年4月にファースト・シングル「12月の雨の日 / はいからはくち」を発表。11月にはセカンド・アルバム『風街ろまん』(71)を発表。12月にはセカンド・シングル「花いちもんめ / 夏なんです」を発売する。さらに、高田渡『ごあいさつ』(71)、加川良『教訓』(71)などのレコーディングにも「はっぴいえんど」として参加。細野は、小坂忠のアルバム『ありがとう』(71)でも大きな役割を果たすなど、フォーク系アーティストのサウンドメイクも手がけていった。
72年、“第2回春一番コンサート”に出演するが、8月を最後に、「はっぴいえんど」としてのステージは行なわれなくなり、事実上の解散状態となる。状況打破のため、10月にロサンゼルスでアルバムのレコーディングを行なったが、年末にはバンドの解散が決定する。73年の2月、サード・アルバム『HAPPYEND』(73)発売される。翌年の74年、ベストアルバム『SINGLES』(74)が発売された。
73年 細野は年明けからソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』(73)のレコーディングを狭山の自宅で行なう。レコーディング・メンバーとして鈴木茂の他、小坂忠のバック・バンド、「フォージョー・ハーフ」の林立夫(ドラムス)、松任谷正隆(キーボード)が参加。このメンバーで新グループ、「キャラメル・ママ」が結成された。サウンド・プロデュースができるレコーディング・グループとして、遠藤賢司のライブアルバム『歓喜の歌 遠藤賢司リサイタル』(73)、南正人『南正人』(73)、吉田美奈子『扉の冬』(73)、南佳孝『摩天楼のヒロイン』(73)、荒井由実『ひこうき雲』(73)などを手がける。グループでのライブ活動は極端に少なかったが、9月21日に文京公会堂で行なわれた『はっぴいえんど解散コンサート CITY』(74)では「キャラメル・ママ」としてのステージも行なわれた。この時のライブアルバム『ライブ!! はっぴいえんど 1973/9/21』(74)には、「はっぴいえんど」としての演奏は収録されたが、「キャラメル・ママ」の演奏は収録されなかった。この頃、細野は雑誌のインタビューで、注目するベーシストとして、チャック・レイニー、リック・ダンコ、リー・スクラーの名を挙げている。
74年 「キャラメル・ママ」は活動の幅を広げ、アグネス・チャンのシングル「ポケットいっぱいの秘密」、南沙織の「夏の感情」、雪村いづみのアルバム『スーパージェネレーション』(74)なども手がけ、歌謡曲シーンにも、サウンドづくりの重要さを意識させるようになる。7月頃、「キャラメル・ママ」はバンドのスタイルから、より広い活動ができるミュージシャン集団へとスタイル・チェンジを図り、名前も「ティン・パン・アレイ」と変えた。ブレッド&バター「ピンク・シャドウ」、荒井由実のアルバム『ミスリム』(74)、また、フィラデルフィア・ソウルの人気グループ、スリー・ディグリーズの「ミッドナイト・トレイン」などを手がける。こうした活動の一方、細野は単独で「ホーボーズ・コンサート」と呼ばれるライブにも出演。その演奏は、アルバム『1974 HOBO’S CONCERTS V~ありがとうありがとうありがとう~』(76)で聴くことができる。
75年 小坂忠のアルバム『ほうろう(HORO)』(75)をプロデュース。小坂忠&ティン・パン・アレイとして全国30カ所の「ファースト&ラストコンサート」(吉田美奈子、鈴木茂&ハックルバックが参加)も行う。6月、セカンド・ソロ・アルバム『トロピカル・ダンディ』(75年)を発表。欧米の人々が南国や東洋に向けるエキゾティシズムを逆手に取った新しいコンセプトを打ち出す。その延長として、久保田麻琴と夕焼け楽団のアルバム『ハワイ・チャンプルー』(75)にも参加。前後して、センチメンタル・シティ・ロマンスのファースト・アルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』(75)、西岡恭蔵の『ろっか・ばい・まい・べいびい』(75)にもプロデューサーとして参加している。11月、「ティン・パン・アレイ」のセッションアルバム『キャラメル・ママ』(75)を発表。
76年 4月 ソロ・シングル「北京ダック」発売。5月、横浜中華街で「北京ダック」発表ライヴ・コンベンションを行う。演奏には坂本龍一も参加。6月にはティン・パン・アレイとして、9か所のライヴ・ツアー「トロピカル・ツアー」(矢野顕子、佐藤博参加)を行なう。7月、前作のコンセプトをさらに推し進めたアルバム『泰安洋行』(76)を発表。
77年 いしだあゆみの『アワーコネクション』(77)を「ティン・パン・アレイ」として手掛ける。その後も、7月に前田憲男との『SOUL SAMBA/HOLIDAY IN BRAZIL』(77)、9月に『ティン・パン・アレイ2 』(77)を発表するが、これらは既成曲のカバー・アルバムで、創造的活動の機会は減り、「ティン・パン・アレイ」は実質的に解体していった。その後「ティン・パン・アレイ」は、79年にティン・パン・アレー3枚目のアルバム『メルヘン・ポップ』(79)をリリースするが、細野はYMOでの活動が多忙だったため不参加。
細野晴臣も次のテーマに向かっていく。
78年4月 ソロアルバム『はらいそ』(78)を発表。クレジットに「細野晴臣とイエロー・マジック・バンド」と表記する。レコーディングに参加した坂本龍一、高橋幸宏に「イエロー・マジック・オーケストラ」のコンセプトを伝え、意気投合。6月に発表された高橋幸宏のアルバム『サラヴァ!』(78)にも坂本と共に参加。9月、横尾忠則らとインドを旅したインスピレーションから制作したアルバム『コチンの月』(78)を発表。レコーディングには坂本龍一、松武秀樹が参加。11月、細野、坂本、高橋が結成した「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』(78)を発表。シンセサイザー、コンピュータを駆使した画期的サウンドが話題となり、83年の解散までの5年間、日本を席巻する。12月、新宿・紀伊國屋ホールの「アルファ・フュージョン・フェスティバル」に出演。プロデューサーのトミー・リピューマの目に留まり、A&Mレコード傘下の“ホライゾン・レコード”よりアメリカでのリリースが決まる。
79年 アメリカ盤『YELLOW MAGIC ORCHESTRA』(79)の発表で日本でも「YMO」人気が爆発。4月、ロサンゼルス、グリークシアターでチューブスコンサートのオープニングアクトとして出演。絶賛を浴びる。9月、セカンド・アルバム『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』(79)を発表。10月、ロンドンからスタートするワールドツアー「トランス・アトランティック・ツアー」(第1回ワールド・ツアー)を行う。サポートメンバーは、矢野顕子(キーボード、バックボーカル)、渡辺香津美(ギター)、松武秀樹(プログラマー、シンセサイザー)が参加。80年の2月 このステージを収録したライブアルバム『パブリック・プレッシャー公的抑圧』(80)が発表される。
YMO以外の活動として、シーナ&ロケッツのアルバム『真空パック』(79)プロデュース、ブレッド&バターのアルバム『LATE LATE SUMMER』(79)の編曲、演奏も行っている。80年3月、YMOとして初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」を大成功させ、テクノ・ブームを牽引する国民的人気グループとして、テレビ出演も行う。ツアーのサポートメンバーは松武秀樹、大村憲司、鮎川誠、橋本一子、藤本敦夫、藤井丈司。6月、スネークマン・ショーとのコントを織り交ぜて制作されたアルバム『増殖×∞』(80)を発表。10月からは前回よりスケールアップした2回目のワールドツアー(14か所。サポート、大村憲司、矢野顕子)を成功させる。81年 YMOは、3月に『BGM』(81)、10月に『テクノデリック』(81)と精力的にアルバムを発表し、より実験的なテクノ・サウンドにアプローチする。10月から国内ツアー「ウインターライヴ’81」を行う。サポートメンバーは松武秀樹、立花ハジメ、梅林茂。同時期に加藤和彦のアルバム『うたかたのオペラ』(80)レコーディングに参加、イモ欽トリオのヒット曲「ハイスクール・ララバイ」の作・編曲などがある。
82年 高橋とともに、YMOのレコードを出しているアルファ・レコード内のレーベルとして“YEN(¥EN)”レーベルを発足させる(82年〜85年)。第一弾として、5月に細野のソロアルバム『フィルハーモニー』(82)を発表、ミニマル・ミュージック的アプローチを行う。このレーベルからは、戸川純、ゲルニカ、立花ハジメ、サンディ&サンセッツ、Interiousなどがアルバムを発表。80年代ニューウエイブ・シーンをリードする役割を果たした。6月、高橋幸宏のソロ・ツアーに参加。また、加藤和彦のアルバム『ベル・エキセントリック』(81)のレコーディングに、坂本、高橋とともに参加。山下久美子に「赤道小町ドキッ」を提供する。
83年 1月、YMOのシングル「君に胸キュン」を発表。意識的に歌謡ポップス色を持たせたこの曲はスマッシュヒットとなる。5月、アルバム『浮気なボクら』(83)を発表。11月からスタートした国内ツアー「1983 YMOジャパンツアー」最終日となる12月22日の日本武道館公演を最後にYMOが“散開”することを表明。12月14日に散開記念アルバム『サーヴィス』(83)を発表する。この年、松田聖子に「天国のキッス」「ガラスの林檎」を提供。中島みゆきのアルバム『予感』(83)にベーシストとして参加している。
84年 2月、YMOのラストツアー・ライヴ・アルバム『アフター・サーヴィス』(84)発売。4月には武道館での公演を素材として制作された映画「A Y.M.O. FILM PROPAGANDA」(84)で活動を終える。同年の4月、YENレーベルから、ビデオ・ゲームの音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(84)を発表。音楽ジャンルとしてのゲーム音楽の可能性を示す。11月、自身のソロ活動としてテイチクに移籍して、ふたつの新レーベル“ノンスタンダード”“モナド”を設立。“ノンスタンダード”第一弾として『Making of NON-STANDARD MUSIC/Making of MONAD MUSIC(84)』というレーベルガイドとも言うべきアルバムを発表。12月には“ノンスタンダード”から、ビート感あふれるエレクトロニクス・サウンドのミニ・アルバム『S・F・X』(84)を発表。この年には、カセットブック『花と水』(84)も発表している。
85年 6月15日、国立競技場で行われた「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」に、「はっぴいえんど」を再結成して出演。この時の演奏がライブ盤『THE HAPPY END』(85)となる。レコーディングも精力的に行い、“ノンスタンダード”からアニメ映画のサウンドトラック盤『銀河鉄道の夜』(85)を発売。“モナド”から『COINCIDENTAL MUSIC』(85)、『MARCURIC DANCE』(85)、『PARADISE VIEW』(85)、『THE ENDRESS TALKING』(85)と次々に意欲作を発表。細野はマーキュリー以降の4作のアルバムの事を「観光音楽」と呼んでいた。
86年 『S・F・X』(84)をきっかけに、元「Interiors」の野中英紀らと「Friends of Earth(F.O.E)」というユニットを結成。2月にはジェームズ・ブラウン来日公演のオープニング・アクトとして初ライブを行う。メンバーは他に西村麻聡、越美晴、サンディーなど。「F.O.E」のアルバム『SEX ENERGY & STAR』(86)には、ジェームズ・ブラウンが参加した「SEX MACHINE」が収められている。翌87年、近田晴夫の主催するレーベル「BPM」から12インチシングル『COME★BACK』(87)をリリースする。
87年 “ノンスタンダード”と“モナド”レーベルは活動を終了するが、細野以外にも「MIKADO」、「越美晴」、「SHI-SHONEN」、「PIZZICATO V」、「WORLD STANDARD」などが作品を発表し、新たな音楽シーンの動きを紹介するレーベルとして存在感を示していた。フリーになった細野は、アニメ映画『紫式部 源氏物語』(87)の音楽を手掛け、サウンドトラックのアルバムを発表。日本音楽の原点を探る。88年には積極的に海外に出かけ、各地の民族音楽と改めて触れていく。さらに7月には、お互いの音楽姿勢を認め合うVan Dyke Parks(ヴァン・ダイク・パークス)とコンサートを行う。こうした活動を経て89年の3年ぶりのソロ・アルバム『オムニ・サイト・シーイング』(89)を発表。その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供を続ける。90年、忌野清志郎、坂本冬美と、東芝EMI創立30周年記念イベント「ロックの生まれた日」で競演したユニット「HIS」を結成。アルバム『日本の人』(91)を発表する。
*05年 「HIS」の3人が集まり、坂本のシングル「Oh, My Love ~ラジオから愛のうた~」を制作。06年にはライブ出演も行った。
93年、散開後10年を迎えてYMOを再生し、アルバム『テクノドン』(93)を発表。6月に東京ドームでライブを行ない、ライブアルバム『テクノドン・ライヴ』(93)も発売される。この機に過去のYMOの未発表作品、リミックス、映像作品等が発表される。しかし、YMOとしての活動は持続されなかった。
*第1回ワールド・ツアーのライブの未発表録音を収録したライブアルバム『フェイカー・ホリック』(91)をリリース。翌92年には、武道館でのライブの完全版として『コンプリート・サーヴィス』(92)が発売される。リミックスはブライアン・イーノ。93年のは『ライヴ・アット・武道館1980』と(93)『ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978』(93)がリリースされる。95年には、新宿コマ劇場でおこなわれたYMOのライブを収録した『ウインター・ライブ1981』(95)。翌96年には、YMOの第2回ワールド・ツアー公演を収録した『ワールド・ツアー1980』(96)。97年にロサンゼルス、グリーク・シアターで収録されたライブ『ライブ・アット・グリーク・シアター1979』(96)を次々とリリースする。
同年、細野はソロアルバム『メディスン・コンピレーションfrom the Quiet Lodge』(93)を発表。さらに94年には、遊佐未森、甲田益也子、小川美潮と、アンビエント・ミュージツク色の強いユニット、「LOVE, PEACE & TRANCE」を結成し、シングル「HASU KRIYA」を発表。翌95年にはアルバム『LOVE, PEACE & TRANCE』(95)を発表。この年、細野のソロ・アルバムも『グッド・スポーツ』(95)と『ナーガ』(95)の2枚が発表される。
96年 細野自身のレーベル“daisyworld discs”を創設。レーベル参加アーティストによるオムニバス・アルバム『Daisy World Tour』(96)に続き、 HAT(細野、アトム・ハート、テツ・イノウエ)名義のアルバム『Tokyo-Frankfurt-New York』(96)を発表。コシミハルとのユニット、スウィング・スロウ名義でアルバム『swing slow』(96)を発表するなど、多くのユニットでの活動を行う。
99年 久保田真琴とのユニット、ハリーとマック名義でアルバム『ルイジアナ珍道中』(99)を発表。00年 細野、鈴木茂、林立夫が新たなユニット「TinPan」を結成。アルバム『Tin Pan』(00)を発表。01年 NHK-BSで放映された細野晴臣デビュー30周年記念特番「細野晴臣 イエローマジックショー」に坂本龍一、高橋幸宏、松本隆、鈴木茂、忌野清志郎、高野寛、テイ・トウワらが出演。02年 高橋幸宏とのユニット、「スケッチ・ショウ (SKETCH SHOW)」を結成。アルバム『AUDIO SPONGE』(02)を発表。フォーキーなエレクトロニカサウンドに取り組む。「スケッチ・ショウ」は翌03年にも『tronika』(03)『LOOPHOLE』(03)と2枚のアルバムを発表。ライブ活動も行ない、04年にスペイン、バルセロナで開催された国際フェスティバル「sonar festival 2004」に「Sketch Show + Ryuichi Sakamoto = Human Audio Sponge = HAS」として、93年のライブ以来ステージに立つ。これをきっかけに実質的なYMOとしての活動も増えていき、07年にはテレビCMにも出演している。
05年 ソロ活動でも犬童一心監督の映画『メゾン・ド・ヒミコ』(05)のサウンドトラック盤で、音楽を担当。同年9月、狭山稲荷山公園で行われたハイドパーク・ミュージック・フェスティバルでは久々にボーカルをとり、73年のアルバム『HOSONO HOUSE』の曲を披露。また07年にはアニメ映画『エクスマキナ』(07)。08年にはやはり犬童一心監督の『グーグーだって猫である』(08)を発表した。
07年 ソロアルバム『FLYING SAUCER 1947』(07)を、ハリー細野&ワールドシャイネス名義で発表する。「ワールドシャイネス」のメンバーは、徳武弘文、高田漣、伊賀航、コシミハル、浜口茂外也。同年、坂本龍一の立ち上げたレーベル“commmons”から、坂本龍一、高橋幸宏、矢野顕子、東京スカパラダイスオーケストラ他、多数のアーティストが参加した『細野晴臣トリビュート・アルバム』(07)が発売される。この年には同時に、再度「YMO」名義として復活を果たす。HASとYMOを統合した新たな名義である「HASYMO(ハシモ)」の名称を使い分けて活動を展開する。TVCMに出演。再発版や復刻版の発売の他、京都東寺でライブをおこなう。7月には細野晴臣のトリビュートライヴが日比谷野外音楽堂で催される。この時のライブは、翌年DVDとして発売される。『細野晴臣と地球の仲間たち~空飛ぶ円盤飛来60周年・夏の音楽祭~』(08)
08年 続編となる『細野晴臣 STRANGE SONG BOOK』(08)を発表。3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。同年、「HASYMO(ハシモ)」で、ロンドン、スペイン、東京の夏フェスなどでライブをおこなう。10年には再び夏フェスに参加。翌年、アメリカ公演をおこなう。帰国後フジロック・フェスティバルに参加する。
11年には、daisyworld discsから全曲ボーカル入り、Van Dyke Parks(ヴァン・ダイク・パークス)が参加したソロ・アルバム『HoSoNoVa』(11)を発表。
同年、「くるり×細野晴臣 東北ツアー」を開催する
翌12年、11年に行なわれた「HASYMO(ハシモ)」のアメリカ公演でのライブ『Live in San Francisco 2011』(12)がDVDとして発売されている。
13年 カバー・アルバム『Heavenly Music』(13)を発売。同年、大貫妙子のトリビュートアルバムに、松任谷正隆を加え「キャラメル・ママ」名義で、松任谷由実と共に参加。 『Tribute to Taeko Onuki』(13)。
14年 矢野顕子の「さとがえるコンサート」にTin Pan (細野晴臣、鈴木茂、林立夫)として参加。このコンサートはライヴ・アルバム『さとがえるコンサート』(15)として発売される。小田和正のテレビ番組「クリスマスの約束」に出演。
15年 矢野顕子の「さとがえるコンサート」のライブアルバムが発売される。
『矢野顕子+ TIN PAN PART II さとがえるコンサート』(15)
17年 カバー集とオリジナル音源詰まった2枚組のソロ・アルバム『Vu Ja De』を発表。
18年 是枝裕和監督の映画『万引き家族』の音楽を担当。
インタビュー
最初に、細野さんご自身が参加されたアルバムの中で、一番想い入れのあるアルバムはどのアルバムでしょうか?
吉田美奈子「扉の冬」 / 荒井由美「ひこうき雲」
どちらもフェンダーのフレットレスが気に入って使ってたころのレコーディングです。その後、そのプレシジョン・ベースは盗難にあい、それ以来、フレットレスは使ってません。
当時の使用楽器や、今使用されている楽器についてお聞かせ下さい。
フレットレスはFenderのプレシジョンで、70年代に買った新品でしたが、盗難で消失。
基本的にはサンバーストのFender Jazz Bassを使ってます。1968年製だったか。詳細は誰かが調べてくれましたが忘れました。
初めて聴いたチャック・レイニーが参加しているアルバムは、どのアルバムでしょうか?
最初はアルバムというより、ヒット・ソングでした。
アレサ・フランクリン(Aretha Franklin) “Rock Steady” それまでのマッスルショールズとやったアレサのヒット曲も好きでしたが、チャック・レイニーを意識したのはこの曲。
もうひとつはQuincy Jones “Summer In The City”。そしてよく聴いたアルバムは”The Chuck Rainey Coalition”というリーダー・アルバムです。
その後、チャックレイニーが参加しているアルバムを聴いて、印象に残っているアルバムはどのアルバムでしょうか?
Marlena Shaw “Who Is The Bitch”(75)
Laura Nyro “Eli and the Thirteenth Confession”(68)
マレナ・ショーは数年前に東京ブルーノートで公演があって、ベースがチャック・レイニーでしたから、当然見に行きました。
それらのアルバムを聴いた時、チャックレイニーの事をどのように思われましたか?
ソフトな音色とミュート感、倍音、ハーモニなど、どれをとっても他のベースと違って、とても影響されました。
チャックレイニーに向けて、一言メッセージをお願いします。
「先生」と呼ばせてください。自分のような世代のベーシストはみな生徒です。ありがとう!
日本の音楽シーンを支えて来た細野晴臣さん。チャック・レイニーへの想いが伝わってきました。いつかお二人の対談もお聞きしたいものです。